昭和五十七年八月二十五日 朝の御理解
御理解第九十節
上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を 開くというても匹夫(ひっぷ)俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。
教祖生神金光大神の出現によって、ここに初めて天地金乃神の願いが初めて人の世に問 われる事になった。その金光大神が教えてこられた、その教えが続いて百年の月日が流れた。そして今日合楽で、合楽理念、いわゆる御理念が発表されることになった。御理念による助かりという事が、お道の信心をさして頂いておる総てが、そういう働きになってきた時に、教祖金光大神に現われた天地金乃神様のいよいよ願いが成就してくる、という事に私はなるのだというふうに思います。という程に、今合楽で説かれておる御理念は、ま、天地金乃神様の願いが初めて合楽によって、誰でもしかも容易う人間が人間らしゅう生きながら、生神への道を進めていけれる手立てが合楽に出来て、初めてできたといったような意味の事も言えるんじゃないかと思います。
過去百年の中に、随分おかげも頂いてまいりました。偉い先生も出られました。けれど も、どこを捕らえて金光大神の信心を前代未聞とか世界の名教とかと言ってきたか。どうも、それが私は的外れ見当違いが、ただ、ま、いうならば自分よがりに世界の名教だ、前代未聞だというふうに言ってきたような気がするんです。
合楽理念が打ち出されて、合楽理念の内容が分かって初めて成程世界の名教だな、金光 大神はこういう事を教えておられたんだなと、成程これなら前代未聞だな、成程これが世に問われるようになった時に、初めていわゆる名教が名教たる所以が分かって来る時だというふううに、ま思います、ね。
昨日、一昨日でしたかね、梅山先生の奥さんが頂とる合楽の信心を、こ、五段階に分け るという事はまあ一段二段三段四段五段と、その五段の所におるのが、ま、私じゃなかろうかと、これが最高じゃあないまあだ六段もあれば七段もあろうけれどもね。
私がいつも申しますように、合楽理念はもう絶対の道がここに初めて説かれるようにな り、しかもそれが完ぺきを目指してということは、まだ限りがないというふううに申しますように、ま、その絶対の道を五段のところまでいうならばすすめておるのが合楽であり、そこで皆さんの場合はね、初段の人もあり、二段三段四段の人もありましょう。そこで、お互いがそこんところをそれこそ一段一段すすんでいくという信心、ね。
初めの間はなるほど、下から上へ流すように難しいけれども、信心のいわゆる段階とい うものを追いながら、例えば合楽で説かれる真の信心を目指すということがね、天地日月の心を心とする生き方をいよいよ身に着けていこうと私は一心発起したところから一段、それまでのただ合楽にワッショイワッショイというて沢山参ってきます。ワッショイワッショイというかね、はあ御利益が頂かれるげな、おらげが頂けれるげなといって、ま、御参りしてくるのはまあだ私は初段にもなっていないと思うですね。
本気で稽古をしようという気になって、ね、いわば、なら天の心とは地の心とはと、そ れを求める。それを、いよいよ信心の信条にして行こうというような意欲が出たときが初めて初段だ。そして実験実証していく間に、なるほど間違いがないな、なるほどなるほどと二段三段になる、ね。なら、私はまた五段からこんだ六段を目指していくわけでありますが、ね。そういう意味で、いわば合楽が金光教百年にして初めて天地金乃神様の願いが、いわばその成就の糸口が出来たと。
過去百年の信心は、いうなら何様でも兎に角一生懸命な、あられん行をさせて頂いたり 、教祖金光大神の神髄というところに触れずに、ね、その一部に触れて、例えばおかげを頂く、不思議な体験を頂く、ま、それでおかげを頂く力ね。
以前に、教団の中に絶対信という信心を説かれた先生があって、大変おかげを受けられ た。昨日、私その先生のお話がある本に出るというので楽しみに待っておりましたら、昨日その本がまいりましたから読んでもらったですけれども、その先生が、どういうところを絶対信としてとらえられておられたかということを知りたいと思ったんですけれども、そういうことには触れていなかった。
それを読んで頂いとるうちに、私はここで御心眼に頂いたのは、『一本の傘にブラ下が って、それがこう、ま、昇天していくところ』を頂いた。いうなら、安心というわけですね。傘というのは安心、その自分が頂いているものが絶対信、絶対信と思うておられても、どこを根拠にして絶対信であったか。いわゆる信心が地についていない。
それで、私昨日の研修の時、皆さんに言うたんですけれども、ね、とにかく信心によっ て心が育つということではなくて信心によって心臓が強くなったち、はあ、あん男ばっかりは心臓が強いというでしょうが、いうなら過信なんです。自分の腕を過信する、ね。そして、信心が地についていないという、まあ五十歩百歩でそういう事でね。おかげを頂いたり表わしてきたのが過去の金光教ではないかというふううに思います。
その心臓の強いのというなら絶対信とのバランスが崩れてる、いやそのどっから生れた 絶対信か、今合楽で説かれてる一切神愛論、ね、いわゆる御理念によって生れてくる確信、絶対信ね、そこになら一切神愛論をマスターしたうえに生れてくる確信であるならば、いうならば足が地についた信心がいよいよ出来てくる事になるのであります。
そこまでが、なかなか下から上へ水を流すように難しかったのが、合楽の出現によって ですねこれからは今度は、上から下へ水を流すように、なるほどね、一段から二段二段から三段と段をおっていくという、その信心内容も一切神愛論といわれる一切神愛ということを分かって生れてくる、いうなら体験の蓄積なんです。そしてそれが絶対信に変わっていった時に、初めて絶対信と言へるのぢゃないだろうか、ね。
まずは、一切神愛というところをふんまへての信心の段階、それを私、まあその信心の 段階をね、梅山さんが頂いとるところからいうと、五段のところまで上っておるというのが私でなかろうか。これは、もう限りがない精進なんです。
けれども、もう間違いない教祖金光大神に天地金乃神様が現われなさった。そして、ど ういう願いをもって現われなさったかというとです、ね。合楽で言われる御理念の内容が世界総氏子の上に現われてくるようなおかげを願われて、天地金乃神様の願いをここに現れるという、祈念拝詞の中にそういうところがありまっしょ。神の願いが、ここに教祖金光大神によってそれが説かれてきた。そして、なら天地金乃神様の本当の願いというのは一切神愛という事を分かってくれという事、神の働きの中には一切神愛なんだ。
まあ、教祖はそこを難は霊験というふううに説かれたんですけれども、皆もそれはお道 の信心をしとるものは、みんなそれを知っておりますけれどもね。具体的にそこんところをふんまえての確信ぢゃなかった。それが自分では気づかんなりにです、いうならば何と神様がおかげを下さる。一生懸命になれば、おかげが奇跡も現わして下さる。それでもこれが絶対だ間違いないと言って絶対信を説かれた。いうなら心が育つ事が伴わずに心臓だけが強うなった、と言うところに、そのいうなら安心の傘が本当の安心の傘じゃなくて、それが昇天したような結果になったんだとという事。
地についた安心、ね、地についた信心の確信、それは合楽理念を土台にしたところから でなければ生れて来ないという事、ここのところを私はね、いかに合楽理念が天地金乃神の心であり願いであったか。ですから、ならそういう教会に皆さんが御縁を頂かれたのですから、本気でその理念の実験実証を楽しみにね、信心の稽古に励ませて頂かねば。
いつもこげなおかげを頂いとる、もう神様にお願いさへしておけばもう親先生の言われ る事は絶対だ、間違いないんだというような事だけでもし信心が進んでいっておるとすると、それはね、あなたの心が育たずに心臓だけが育っていっておるという事になりゃしませんでしょうか、ね。
信心が地についた、それでいて絶対信心が育ってくるいわゆる合楽理念のマスターによ って一切神愛という事をふんまえて育ってくる。しかも、それに育ってくる心の状態、ね、そこに初めて信心の段が頂けるという事になるのじゃないでしょうか。
体験を積んだから、おかげを頂いたから信心がでけておるという事ではない。そこんと ころまでを私は、ま、いうならば下から上へ水を流すように、今まで知らなかった知らない事とはいいながら思い方考え方が違っておった。初めて本当の本当を御理念によってわからせて頂いた。ここで本当の本当の事をいよいよ求めてすすめていくから、またそれには本当のおかげが伴のうてくるというおかげ。そういうおかげを受けてくれよという願いが、天地金乃神が金光大神に願われた願いじゃなかったやろか。金光教百年にして、初めてそこんところが解明されつつあるのが今日の合楽だというふうに思います、ね。
ですから、いかに解明されてもそれが皆さんの血肉になっていく精進を本気で、信心、 いうならそういう信心の稽古をしよう。本気で、一切神愛という事の、を、実験実証によっていよいよ確かめていく、という信心を育てていける。初段の人が二段二段の人が三段と、一段一段信心をすすめていかなければならんというふううに思います。皆さんどうでしょう、ま、私を五段とするなら皆さんはどこに、あなたの信心は何段のところにあるだろうか。一遍、思ってみると面白いですね。面白いと言うか、信心の次の手掛かりを得るために精進する。そのことが有難いのです。 どうぞ